須賀下東遺跡
すがしたひがしいせき
所在地 | 茨城県鉾田市野友須賀下859-1番地ほか |
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立地 | 鉾田市の中央部,巴川右岸の標高約20mの台地上 |
調査期間 | 2017年4月3日~8月31日 |
調査面積 | 5,518㎡ |
主な時代 | 古墳時代奈良時代平安時代 |
主な遺構 | 縄文土器(深鉢),弥生土器(壺),土師器(坏・高坏・坩・壺・甕),須恵器(坏・高台付坏・坏蓋・甕・長頸瓶・短頸瓶),灰釉陶器(壺),土製品(炉器台・支脚・羽口・紡錘車・管状土垂・土玉),石器(尖頭器・石鏃・剥片),石製品(砥石・金床石・紡錘車),金属製品(刀子),木製品(斗),鍛冶関連遺物(鉄滓・椀状滓・粒状滓・鍛造剥片) |
主な遺物 | 縄文土器(深鉢),弥生土器(壺),土師器(坏・高坏・坩・壺・甕),須恵器(坏・高台付坏・坏蓋・甕・長頸瓶・短頸瓶),灰釉陶器(壺),土製品(炉器台・支脚・羽口・紡錘車・管状土垂・土玉),石器(尖頭器・石鏃・剥片),石製品(砥石・金床石・紡錘車),金属製品(刀子),木製品(斗),鍛冶関連遺物(鉄滓・椀状滓・粒状滓・鍛造剥片) |
調査の成果
調査の結果,古墳時代の竪穴建物跡20棟,奈良時代の竪穴建物跡14棟,平安時代の竪穴建物跡4棟,時期不明の竪穴建物跡1棟,平安時代の鍛冶工房跡1棟,溝跡10条,土坑48基などを確認しました。当遺跡は縄文時代と弥生時代の小規模な土地利用にはじまり,古墳時代から平安時代までの集落が断続的に営まれていたことが明らかになりました。特に,古墳時代後期から奈良時代までの集落が中心となっています。平安時代で注目されるのは,第1号鍛冶工房跡で,長径約6m,短径約5mの楕円形の竪穴で,底面の中央部には鍛冶炉や土坑が構築されていました。覆土中からは多数の鉄滓や鞴(ふいご)の羽口,金床石,鍛造剥片,粒状滓などの鍛冶関連遺物が出土しました。羽口や鉄滓などの出土量から,長期間にわたり,繰り返し操業していたことが窺えます。当集落には,鍛冶にかかわる工人集団が居住し,集落の内外に鉄素材や鉄製品を供給していたと考えられます。
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調査区全景
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第1号鍛冶工房跡
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膨大な量の鉄滓
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鞴の羽口(前)と金床石(後)
調査の状況
古墳時代中期の第19号竪穴建物跡は,床面からたくさんの炭化材が出土していることから,上屋などが焼失した建物跡と考えられます。また,北壁際から3点の炉器台がまとまって出土しました。本来は炉に据え置かれて甕などを支える台として使用されたと考えられます。平安時代の第1号鍛冶工房跡は,長径約6m,短径約5m,深さ約1.2mの楕円形の竪穴で,その覆土からはたくさんの鉄滓や羽口,金床石などが出土しました。竪穴の中央部に構築された複数の鍛冶炉や土坑をはじめ,出土した鉄滓や羽口などの数から,長期間にわたって操業していたことが窺えます。こうしたことから,当集落には製鉄関連の工人集団が住まい,そこで生産された鉄素材や鉄製品は,集落内はもちろん,周辺地域の集落にも供給されたと考えられます。
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第19号竪穴建物跡の炉器台
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第1号鍛冶工房跡の鍛冶炉
調査の状況
5月に表土除去作業と遺構確認作業を終了し,現在は竪穴建物跡を中心とする遺構の調査を開始しています。竪穴建物跡は,古墳時代前期から奈良時代のもので,耕作トレンチャーによって破壊されているものが多い中,第6号竪穴建物跡では,床面から4か所の柱穴と北壁中央部から竈を確認しました。竈の両袖は砂質粘土ブロックで構築され,火床面付近から須恵器の坏が出土しました。煮炊きに使用しない坏が竈内から出土したことは,竈の廃絶に伴った儀礼的な行為の可能性もあります。建物跡の時期は,出土した土器から奈良時代(8世紀前葉)と考えられます。
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竈を有する第6号竪穴建物跡
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竈から出土した須恵器坏
調査の状況
4月から東関東自動車道水戸線(潮来IC~鉾田IC)建設事業に伴って,調査を開始しました。重機による表土除去作業が終了し,古墳時代から平安時代の竪穴建物跡などが数多く確認しました。調査区全域から,多くの鉄滓が出土していることから,鉄製産関連の工房跡などの存在も見込まれます。6月から掘り込みを開始します。野友の地から,どのような遺構や遺物が眠りから覚めるか,とても楽しみです。